興南監獄脱出記

興南監獄脱出記

1950年、無実の罪で投獄された若き先生と弟子たちが興南監獄から生還するまでの物語。

韓国語の原文からAIが翻訳しました。

目次 (19)
  1. プロローグ
  2. 連行される囚人たち
  3. 地獄の囚人生活
  4. 興南工場
  5. 飢えと死
  6. 若き青年
  7. 先生596番
  8. 囚人たちの先生
  9. 夢に見た祖父
  10. 精誠を捧げる先生
  11. 弟子の不信
  12. 聖書の秘密
  13. 続く不信
  14. 戻ってきた弟子
  15. 先生を訪ねてきた女
  16. 戦争の始まり
  17. 囚人たちの死
  18. 生と死
  19. 脱出

01プロローグ

『プリズン・ブレイク』というアメリカの人気ドラマがあった。主人公が、無実の罪を着せられて監獄に閉じ込められた兄を脱出させるため、あらゆる逆境を乗り越えて成功させる物語である。

興南監獄からの脱出は、1950年に起きた韓国版『プリズン・ブレイク』であった。

それは、無実の罪を着せられて獄に囚われたメシアを脱出させるために、天が繰り広げた歴史的事件であった。死にも等しかった興南監獄での生活に耐え抜き、ついに脱出に成功したこの事件は、いかなる小説や映画よりも感動的である。

02連行される囚人たち

連行される囚人たち

1949年2月、刺すような冬の風を突いて、雪の積もった道を一台の貨物トラックがゆっくりと這うように進んでいた。荷台に載せられているのは貨物ではなく、乞食の群れのような数十人の男たちだった。その惨めな姿の者たちは、何の希望もない顔つきで、ただ目だけをぱちぱちさせていた。彼らはみな縄で腕を縛られ、しかも二人一組で隣の者とも結わえられていて、誰ひとり逃げようにも逃げられないようにされていた。

長いあいだ身をかがめて座ったまま揺られているうちに、脚が痺れはじめた。

「おい、この野郎! 脚をもう少し縮めろ!」

「くそっ、こっちだってきつくて死にそうなんだ!」

そのとき、どこからか棍棒が飛んできて、彼らの頭を殴りつけた。

「静かにできねえのか? ここがおまえらの家の奥座敷だとでも思ってるのか?」

監視兵のその一言に、彼らは何も言えず、また身をかがめると、互いに目だけでにらみ合った。

疲れきった彼らの旅路とは裏腹に、無情な車は這うように進んでは止まり、止まっては進むことを繰り返しながら、一晩じゅう走った。そうして夜通し走った車は、夜明けになってようやくどこかに停まった。

鉄条網で組まれた門の前に立っていた警備員が、運転手と二、三言やり取りすると、門を開けた。車は門をくぐり、広い運動場の真ん中で停まった。

「さっさと降りろ!」

どこからか飛び出してきた看守たちが、トラックに向かって怒鳴った。看守たちの命令とともに、囚人たちは立ち上がり、トラックから降りはじめた。長いあいだ脚を縮めて来たせいか、体はこわばっており、そのうえ腕まで縄で縛られていて、トラックから降りることさえ容易ではなかった。降りるや否や、夜明けの冷たい空気が肺の奥深くまで入り込み、髪の先まで逆立つようだった。

「左右に整列!」

あちこちで看守たちの叫び声が騒がしく響くなか、いつのまにか囚人たちは四列に組を作って立たされていた。黒いゴム靴に素足という者がほとんどで、彼らは寒さのために、できるかぎり体を縮こまらせていた。

『くそったれども、寒くて死にそうだってのに、何をそんなにがなり立ててやがる。早く中に入れろよ……』

囚人たちの心は、ただ一刻も早く中へ入りたいという思いでいっぱいだった。

『ブロロロッ!』

そのとき、けたたましいエンジン音とともに、彼らを運んできたトラックが運動場を横切って引き返していった。トラックは役目を終えたかのように、ふっと夜明けの太陽の光の中へ消えていった。運動場に取り残された囚人たちは、そうして消えていくトラックをぼんやりと見つめていた。

03地獄の囚人生活

地獄の囚人生活

「うれしい新入りどもが入ってきたじゃねえか」

新入りの囚人たちが房に入ると、誰かが皮肉るように吐き捨てた。暗く淀んだ部屋には、十数人の先輩囚人たちが、ばらばらに、ぐったりと崩れるように座っていた。

丸刈りの頭に血の気のない顔、どれほど洗っていないのか薄汚れた服と陰気な臭い、冷えきった表情の気味悪い視線。そうしたものが、新入りたちを迎える歓迎の贈り物だった。

新入りたちは、それでも礼儀として挨拶をしなければならない気がして、挨拶をしたあと、きまり悪そうに立っていた。

「座れ」

誰かの言葉に、皆がその場に座った。狭い部屋の隅に大勢を押し込んでいたため、新入りたちは壁にもたれることもできず、こわばったまま正座同然の姿勢で座らねばならなかった。

新入りたちが先輩たちをよく見ると、ひと目見たときよりさらに惨めなありさまだった。とりわけ手足には胼胝が多く、中には骨ばかりが浮き出て、まことに見る影もない者もいた。

『本当に、地獄とはこのことだ』

先輩たちを見ていると、そんな思いしか浮かばなかった。

「919番!」

古参の一人が、新入りの胸もとに付いている番号を見るなり呼んだ。

919番は面食らって「はい」と答えた。

いま呼んだ古参が、ちっちっと舌を鳴らして一言吐き出した。

「三か月ものだな」

何のことか、まるでわからなかった。

「三か月もの、ですか?」

919番が目を丸くして尋ねると、古参が答えた。

「919番、おまえの顔がそんなに白っちゃけてるのを見るに、これまできつい労働なんざ一度もしたことのねえ人間ってことだ。だが、体の具合もそうよさそうには見えねえ。だから三か月もてば、よくもったほうだって話よ」

「三か月はもつって? じゃあ三か月が過ぎたら……」

「三か月が過ぎたら?」

古参は首をめぐらせ、横の男をちらりと見た。その男は骨ばかりが浮き出て、荒い息までついていた。まるで今にも死にそうに見えた。古参はまた首を戻すと、あざけるように言った。

「あのざまだ」

919番は何も言えず、ぼんやりとその死人のような男を見つめるばかりだった。

そうしてしばらく時が流れ、いつの間にか飯時になった。

『これを飯だと思って食えというのか』

男は昨日から今朝まで何も口にできずに来たのだが、朝食として出された飯を見ると、何も考えられなくなった。豆、トウモロコシ、麦を握り固めた小さな握り飯と、二、三切れのワカメがぷかぷか浮いている汁一椀。彼はぼんやりとそれらを見つめているだけだった。

「食欲がねえのか? なら俺が食ってやる」

隣にいたやつが、いつの間にかさっと奪い取って、自分の口の中へ押し込んだ。

04興南工場

興南工場

「全員、労働だ!」

午前8時、看守たちの叫び声とともに、1,500余名の囚人が全員、運動場の真ん中に集められた。看守らしい男が一人、新入りたちに近づいてくると、作業の内容と注意事項を手短に説明した。

二人ずつ縄で縛られた囚人たちは、四列に整列して正門の方を向いていた。やがて正門が開き、1,500余名の囚人たちは朝の空気を切って歩き始めた。十里ほど歩くと、広い平地に大きな工場が一つ見え始めた。工場の正門には大きな表札が掲げられ、何やら文字が書かれていた。

『朝鮮窒素肥料株式会社 興南工場』

919番はぼんやりとその表札を見つめながら、工場の中へ歩いて入っていった。

工場はまさに途方もない大きさで、あちらこちらから響く轟音は、初めて来た者たちに、それまで味わったことのない不思議な感覚を抱かせた。だが、その物珍しさも束の間、看守たちがあちこちで怒鳴り始めた。

「肥料の前に整列!」

囚人たちは山のように積まれた白い肥料の前に全員整列した。まもなく「作業開始!」という命令とともに、それぞれの持ち場で仕事に取りかかった。

一人がまず肥料袋の口を広げて立つ。すると二人がシャベルを手に肥料を袋へ入れる。何度かすくい入れると、後ろに立っていた別の一人がそれを秤の上に持っていく。工場側の検量員が40キログラムを超えていることを確認し、運ぶよう指示する。残りの6人が交代で運び、縛って梱包した。こうして10人が1組となり、一日に1,300袋を運ぶのであった。

この1,300袋という量は、生やさしいものではなかった。朝8時から5時まで、昼休み30分を除いた8時間半、休むことなく3分ごとにこなさなければならない作業量だった。シャベルを使う者も、運ぶ者も、死ぬほどつらかった。寒い冬だったが、1時間ほど過ぎたころから汗が雨のように流れ出した。そうして流した汗のために、顔や、袖をまくり上げた腕には、汗と肥料が絡みついていた。喉が焼けるようで死にそうだったが、囚人たちには水が少量しか配給されなかったため、水も思うようには飲めなかった。

「さっさとやれ!」

919番が袋の結び目をうまく結べず、苦しそうに手間取っていると、班長が怒鳴った。まるでこういう仕事をしたことのない彼は、ほかの者たちより作業が遅かった。一人でも遅れれば組の全員が叱責を受けるため、周囲の視線は痛いほどだった。

「だめだ、こりゃ。919番はシャベルをやれ。」

シャベル仕事も、彼には容易ではなかった。生涯、つらい仕事をしたことのない彼にとって、手にたこができるほどシャベルを振るうことはあまりにも過酷だった。しまいには脚までがくがく震えた。

05飢えと死

飢えと死

919番は、自分がどうやって収容所へ戻ってきたのかも覚えていなかった。まるで昏睡状態のまま歩いてきたかのようだった。生まれて初めての重労働を一日じゅうこなし、疲れきった体を引きずって収容所へ戻ったときには、冬の短い日はすでに沈み、あたりは薄暗くなっていた。

あまりにも疲れ、体の節々が疼き、しびれていたので、一刻も早く眠りたかったが、どうすることもできず、力の抜けた目で互いを見つめ合って座っているしかなかった。

919番は、何気なく、朝から荒い息をついていた古参の囚人に目をやった。骨ばかりが浮き出て骸骨のようなその男は、気力をすっかり失った人間のように壁にもたれ、頭を垂れて、荒い息を吐いていた。どう見ても病人だった。今すぐ病院へ連れていかなければ、数か月どころか、数日も生きられそうに見えなかった。

『あんな人間にも重労働をさせるのか?』

ふと哀れみが胸をよぎったが、すぐに顔を背けた。

皆、飢えのため腹の中で「ぐうぐう」とやかましく音を鳴らしていた。しばらくして飯が出た。空腹を満たすにはあまりにも少ない量だったが、明日のために食べなければならなかった。わずかな量なので、食べ終えるのに五分もかからなかった。そのとき突然、壁際にもたれていた者のひとりが横倒しに倒れた。

「おい、この野郎! 起きろ!」

周りにいた仲間たちが揺さぶったが、彼は起きなかった。両手に握り飯をしっかり握りしめたまま、息もせず横たわっていた。

『結局、ああして逝くのか……』

919番は、それが先ほどの骸骨のような古参だと気づいた。

そうして死んでいく彼を見て、顔を背けようとした瞬間だった。いま倒れた男のそばにいた同期の者たちが、死者の手をこじ開けているではないか。

彼らは死者が握っていた握り飯を抜き取り、自分たちの口へ押し込んでいた。別の奴は口までこじ開け、指を突っ込んで、口の中の飯粒をほじくって食べていた。

新入りたちは、その光景を茫然と見つめていた。

古参たちは別段反応を示さなかった。まるで慣れきったことのように無表情だった。

古参のひとりが叫んだ。

「もうやめろ。死体を片づけろ。」

06若き青年

若き青年

「おまえ、明日は俺と同じ組にはなるなよ。」

919番のように仕事のできない者たちにとっては、仕事が終わったあとに聞かされる、よくある冗談だった。冗談ではあったが、実際、翌日になると、前日に彼と一緒に働いた仲間たちはみな彼を避けた。

収容所に来てからもう半月が過ぎていたが、彼の手つきは相変わらず遅かった。

その日も彼は、肥料袋を抱えて悪戦苦闘していた。

「お教えしましょう。」

同じ組のたくましい青年が一人近づいてくると、手慣れた手つきで袋の結び目を結んでくれた。919番は、青年が教えてくれるとおりに懸命についていった。

「どうです、うまくいくでしょう?」

「そうですな、ありがとございます。」

二十代後半ほどに見えるこの青年は、周りの者たちも舌を巻くほど仕事がよくできた。ほかの者なら、こんな仕事のできない人間をからかいでもしただろうに、かえってそばに来て助けてくれるとは。919番は、もう一度、感謝の気持ちを伝えねばと思った。

昼の時間になると、彼は飯を食べてから青年の隣へ行って座った。

「本当にありがとございます。」

919番は、このありがたさをどう表せばいいのかわからなかった。こんな場所で自分を助けてくれる人に出会えたことが、何よりも大きな喜びだった。彼の心を察したのか、青年は微笑みで応えた。

「来られてまだ間もないようですが、どうしてここまで来られたのですか。」

「実は私は人民軍の将校だったんです。ところが部下が不正を働きましてな、連帯責任ということで……」

「ああ、そうでしたか。新しい環境でおつらいでしょう。私のほうがいくらか経験がありますから、あれこれお教えしましょう。」

『こんなありがたい方がいるものか。』

919番は、感激の涙がこぼれそうだった。この地獄のような場所で、まったく見ず知らずの人間にこれほど親切にしてくれるとは。919番は、まるで親しい兄弟にでも会ったかのように、うれしくてたまらなかった。仕事の合間にも、ちらちらとその青年を見やった。食べられずに痩せた体ではあったが、どの囚人よりも風采が堂々としており、どこか得体の知れぬ威容があるのを感じた。

翌朝、919番は前日の青年と同じ組になるため、早くから運動場に出て青年を捜した。どっとあふれ出てくる囚人たちの中から、昨日の青年を見つけるのは容易ではなかった。みな頭を丸刈りにし、同じ服を着ているせいか、見分けがつかなかった。きょろきょろと捜していると、遠くに囚人番号が目に入った。

『596番』

昨日のあの青年だった。彼はすばやく、その青年の座っている後ろへ行って腰を下ろした。

07先生596番

その日、919番はいつになく希望に満ちた朝を感じていた。596番と一緒に手を縛られて行くことが、これほど嬉しいとは思わなかった。

『人間ってのは、ほんとに現金なものだな。昨日の朝までは、一歩一歩足を運ぶのも重かったってのに、今朝はこの人と一緒なら監獄暮らしも楽しいんじゃないかと思うせいか、足が軽いじゃないか』

ひとりであれこれ考えているうちに、いつの間にか工場に着いていた。

青年は実によく働いた。919番は少し不思議に思った。

『みんな無理やり働いているのに、この人はまるでこの仕事が楽しい人みたいだな』

一時間働くごとに、十五分の休憩時間があった。休憩を知らせる音が鳴ると、皆はシャベルを放り出し、肥料の山の上に寝転がってしまう。だが596番は働き続けていた。彼には周囲の何も聞こえていないかのように、ただ仕事に没頭していた。

919番が彼に近づいた。

「あの……休憩時間です」

919番の言葉に、彼は微笑んでみせた。

「そうですか、聞こえませんでした」

そう言うと、場所を見つけて腰を下ろした。919番もそのそばに座った。

そのとき、誰かが彼らのそばへ近づいてきた。919番はその番号を見るなり、彼が596番の青年と同じ房にいる囚人だと気づいた。彼の囚人番号は595番だった。

彼は596番に「先生」と声をかけた。

その瞬間、919番は驚いて彼を見つめた。

『先生だと?』

むしろ年上に見える男が、若い青年囚に近づいて先生と呼ぶのだから、919番としては内心驚かずにはいられなかった。

「うむ、よく来た。この方にご挨拶しなさい」

596番の言葉に、彼は919番のほうへ歩み寄り、低い声で自分を紹介した。

「初めまして、私は金元徳(キム・ウォンドク)と申します」

919番は突然のことに戸惑った表情を浮かべながら、自分も挨拶した。

「あ……はい……私は朴正華(パク・チョンファ)と申します」

08囚人たちの先生

『あの青年が先生だって?』

919番 朴正華(パク・チョンファ)の頭の中では、595番 金元徳(キム・ウォンドク)がなぜあの青年をそう呼んだのか、ずっと気になっていた。

『ただ者ではない青年だとは思っていたが、まさかあの青年があの人の学校の教師というわけでもあるまいし……』

朴正華はどうしても気になり、昼食を終えるとすぐに金元徳を捜した。

「私をお捜しだったようですね。」

「ええ、ちょいと気になることがありまして。」

「はい、おっしゃってください。」

「朝、596番の青年に、先生という呼び方をなさっていましたが……」

「それが気になったのですね?」

金元徳は周囲を一度見回してから、言葉を継いだ。

「朴先生はキリスト教徒でいらっしゃいますね?」

「ええ、だがそれをどうして……」

「先生は罪があってここへ来られたのではありません。平壌で宣教活動をなさっていて、周囲の勢力から迫害を受け、ここまで来られたのです。」

「すると、牧師様だということですか?」

「私たちはただ、先生とお呼びしています。」

「私たちって? では、ほかにも誰か……」

「この収容所には、先生の御旨に従う弟子たちがかなりいます。」

「ああ、そうなんですか?」

「朴先生も、先生の御旨に従う弟子になってくださることを願っています。」

「先生の御旨とは?」

「それは追い追い、のちほどご説明するとして、この話はほかの人には秘密です。よろしいですね?」

金元徳はくれぐれも念を押して、席を立とうとした。そのとき朴正華がまた尋ねた。

「ですが、一つだけ。」

「はい、おっしゃってください。」

「あの、実は先生という方のお名前がどういうのか……」

「いや、今まであの方のお名前も知らなかったというのですか?」

「あ、はい。つい、気が動転しておりまして……」

「先生のお名前は、文の字、龍の字、明の字、文龍明(ムン・ヨンミョン)です。」

一字一字はっきりと先生の名を告げると、金元徳は背を向けて行ってしまった。

朴正華は先生の名をもう一度、口の中で繰り返してみた。

『文龍明(ムン・ヨンミョン)』

09夢に見た祖父

夢に見た祖父

皆が寝静まった深い夜、どこからか一筋の月明かりが部屋の中へ差し込んできた。

やがてその光は朴正華(パク・チョンファ)の顔にかかり、ふいに誰かが彼を揺り起こした。

「正華! 正華!」

朴正華は、自分を起こす声に顔を上げた。

月明かりを背に、一人の男が腰をかがめて彼を見つめていた。

「いや……じいさま? じいさまが、ここへどうして……」

十年余り前に亡くなった祖父が、生きて戻ってくるとは。彼は驚きのあまり口もきけなかった。

「正華、おまえ、あの先生がどんなお方か知っておるか?」

「あの先生って……」

「そうだ、あの若い先生のことだ。」

「さあ。よくわかりません。」

「あの先生のお言葉には、よう従うんだ。わかったか?」

「いや……それはどういう意味で……」

「とにかく、おまえはあの先生のお言葉に従ってこそ生きられる。肝に銘じろ。」

祖父は言うべきことを言い終えると、月明かりの中へ消えていった。

「じいさま! じいさま!」

朴正華は去っていく祖父に向かって、喉も裂けよと叫んだ。そうして叫んでいるうちに、はっと眠りから覚めた。

『夢だったのか。』

まだ真っ暗な明け方だった。彼は夢の中で聞いた祖父の言葉を思い返した。

『あの若い先生に従えだって?』

首をぶるぶる振ると、『つまらん夢だろう……』とつぶやき、やがて目を閉じた。

朴正華は、先日会った金元徳(キム・ウォンドク)の言葉といい、昨夜の夢といい、いつものように文青年のそばへ近づくのが気にかかってならなかった。それで少し離れたところをうろついていた。

そんな朴正華を遠くから見ていた文青年が、彼のもとへ大股で近づいてきた。

「昨夜、何か夢を見ませんでしたか?」

文青年の突然の言葉に、朴正華は驚かずにはいられなかった。

『いや、この人は、おれが見た夢をどうして知っているんだ?』

彼は心の中で『この人は幽霊なのか』と思い、恐ろしさに体を震わせた。もともと気の弱かった彼は、突然、文青年の前にひれ伏した。

「先生、どう見ても先生は普通の人ではないようです。」

「いや、どうなさったのです。立ってください。」

文青年が彼を起こそうとすると、彼はいっそ蛙のように地べたに伏せたまま、起き上がろうとしなかった。

「先生、監獄の中で弟子たちが従っていることといい、昨夜、私の祖父が現れて先生に従えと申したことといい……どうか私を弟子にしてください。」

「ははは、弟子になりたいということですか。」

「はい、そうです。」

「容易なことではありませんよ。」

その言葉にうろたえた朴正華は、しばらく先生の顔を見つめると、すぐにまた伏して言った。

「一生懸命やります。」

10精誠を捧げる先生

「人民軍の将校だったんだな、そうか」

看守総隊長が在所者の身上簿をのぞき込みながら、朴正華(パク・チョンファ)に向かって言った。

「いまの総班長が来週、刑期を終えて出所することになっている。おまえがこれから総班長を引き受けてやれ」

突然、総班長を任せると言われて面食らった朴正華は、すぐさま先生のもとへ走っていった。

「先生、これから総班長をやれと言われました」

「そうか。よかったではないか。一度、懸命にやってみなさい」

総班長を引き受けてから、朴正華はつらい労働をする必要がなくなった。ただ、在所者たちがきちんと仕事をしているかを点検すればよかった。在所者たちに対していくらかの権限があったため、もう少し楽な仕事へ人を抜き出してくることもできた。そこで彼は、先生にきつい労働を避けてもらおうと、「先生、つらい労働はもうおやめになって、楽な仕事ができるように私が指示しますから、そうなさってください」と言ったが、そのたびに先生は頑として断った。仕方なく、先生がきつい労働をするのを見守るほかなかった。

精誠を捧げる先生

夜だった。

皆が寝静まった夜、誰かが闇の中でひとり端座し、祈りを捧げている。

静まり返った監獄の中に、その祈りの声が小さなささやきのように聞こえる。

たとえ小さな声であっても、彼の胸の内では大きな喊声にも似た、熱望の叫びであった。

「天の御旨を成し遂げます!」

「神様、私は必ずあなたの御旨を成し遂げます!」

「神様、神様、神様……」

そばで眠っていた金元徳(キム・ウォンドク)が、寝ぼけまなこで先生の祈る姿を見た。

『先生はまだ祈っておられるのだな……』

疲れ切っていた彼は、まもなく目を閉じた。

朝になった。金元徳が目を覚ましたときには、すでに先生は姿勢を正して座っていた。

『先生は眠らないお方なのだろうか』

毎度このような先生の姿を目にしていながら、金元徳はただ驚き、不思議に思うばかりだった。

実のところ、収容所で先生の眠る姿を見た者は誰もいなかった。それは、先生がいちばん遅く眠り、いちばん早く起きたからである。また先生は、誰も起きていない明け方になると、決まって冷水摩擦をした。配給されたわずかな水の一部を残しておき、手ぬぐいに含ませて全身をぬぐうのであった。多くの囚人が、体についた肥料をきれいに洗い落とさず、ありとあらゆる皮膚病に苦しんでいたが、先生はこのような生活習慣によって健康な状態を保つことができた。このように、常に端正な生活ぶりこそ、在所者たちが彼を先生として仰がずにはいられなかった理由であった。

11弟子の不信

「正華」

先生の呼びかけに、弟子は低く答えた。

「はい」

弟子よりも若い二十九歳の先生であったが、その声には年齢を超えた深みが潜んでいた。

「今日は私が、正華に聖書の大切な秘密を聞かせてあげよう」

先生の言葉に、弟子ははっと目を見開いた。

「正華は、洗礼ヨハネがどのような存在であったか知っているか」

洗礼ヨハネはイエスの従兄弟であり、来たるべきメシアの進まれる道を備える使命を帯びて現れた者であった。彼は荒野で苦難の生活を送りながら、イスラエル民族に「悔い改めよ」と叫び、多くの人々に洗礼を授けた。それで洗礼ヨハネという呼び名を得たのである。当時のイスラエル民族にとって、洗礼ヨハネは最高の預言者であり、その言葉に多くの人々が感服して従っていた。今日、多くのキリスト教徒が洗礼ヨハネをイエスに次ぐ最も偉大な人物だと称えている事実を、朴正華(パク・チョンファ)も知っていた。

「立派な預言者だったのではありませんか」

弟子の言葉に、先生は口元に得体の知れない微笑を浮かべると、そのまま語り続けた。

「これから私の話をよく聞きなさい。正華が知っているように、洗礼ヨハネはまことに、メシアの進まれる道をあらかじめ来て備える使命を持って生まれた。彼がメシアを見分け、証したことは事実である。しかし、肝心のメシアであるイエスに仕えることはできなかった。それは、彼がイエスを真のメシアだと知らなかったからだ。彼が獄中からイエスに『来たるべきメシアはあなたですか。それとも、ほかの方を待つべきですか』と尋ねた事実を見ても、彼がイエスをメシアとして知らなかったことが分かる。もし彼がイエスに仕え、従っていたなら、獄中で惨めに死ぬことはなかったであろう。彼は自分の責任を果たせなかった、失敗した預言者なのである」

その言葉を聞いた瞬間、弟子の胸はざわざわと波立った。これまで自分が知っていた内容とはまったく違う話が、しかも尊敬し、ついていきたいと思っていた若い先生の口から出たことが、どうにも聞きづらかった。

「先生、それは少しおかしいのではありませんか。私の知るかぎり、洗礼ヨハネは立派な人だと……」

「マタイによる福音書十一章十一節を見ると、イエスは、洗礼ヨハネはこの地上で最も大いなる者であったが、天国ではいと小さき者であっても彼より大きい、と言われた。これは、イエスが洗礼ヨハネの不信をめぐって彼を叱責された言葉なのである」

先生の筋の通った言葉に、朴正華は何ひとつ反論できなかった。だが彼は、これまで信じてきた信念をすぐに変えることはできなかった。

「先生、お言葉はよく分かりましたが、私はその言葉を信じるのは難しいです」

二人のあいだに、ひどく真剣な沈黙がしばらく流れた。やがて先生は、弟子に意味深い言葉を投げかけた。

「正華、君は私の言葉を信じなければならないのだよ」

しかし朴正華は頑固な人間であった。彼は最後まで自分の考えを曲げなかった。

12聖書の秘密

聖書の秘密

その夜のことだった。朴正華(パク・チョンファ)はまたも祖父に会った。

「正華よ、おまえはなぜ先生のお言葉に従わないのだ?」

「じいさま、でも、あの方のお言葉は私には理解が……」

「この馬鹿者め! おまえは本当に死にたいのか?」

祖父の怒りに驚いた朴正華は、眠りの中からはっと目を見開いた。

「昨夜も夢を見たのか?」

ふたたび先生が夢の話をすると、朴正華はもう本当に降参するほかなかった。

「先生、昨日は私が間違っておりました。先生のお言葉なら、これからは無条件に従います。」

「そうか。それなら今日は、また別の秘密を教えてあげよう。」

「今日はイエスの母、マリアについての話だ。」

「まさか、マリアも責任を果たせなかったというお話ではないでしょうね?」

「よく聞きなさい。」

ふたたび先生の言葉が続いた。

「君も知っているとおり、多くのキリスト教徒はマリアを聖母と呼び、敬っている。それは、マリアがメシアを産んだ母であり、命を懸けてイエスを身ごもったという功績があったからだ。」

朴正華は先生の言葉をうなずくような表情で聞いていた。

「だがマリアは、成長したイエスをメシアとして侍ることができなかった。つまりマリアは、自分の責任を果たせなかったのだ。」

静かに聞いていた朴正華の表情が、一瞬にして歪みはじめた。ふたたび彼は心の混乱を覚えた。キリスト教徒なら誰もが、イエスの母マリアを聖なる存在と見なしていた。そうした信仰を抱いて生きてきた彼にとって、マリアが責任を果たせなかったという言葉は青天の霹靂だった。頑なな信仰を抱いて生きてきた朴正華の頭の中は、ほどいた糸玉をばらまいたように、めちゃくちゃになっていった。

『この話は、とても信じられんぞ。』

ふたたび彼の心の中で、先生への疑いが起こりはじめた。

「先生、私はそのお言葉を認めることはできません。」

「また疑っているのだな。それではいけない。」

「それでも、先生、今回ばかりはどうしても……」

先生に背を向けて戻った朴正華は、その夜、なかなか寝つけなかった。

『今日も夢にじいさまが現れて、叱りに来るのだろうか。今回のお言葉だけは、本当に筋が通らないのに……』

祖父の姿がふたたび現れた。今日にかぎって、祖父の顔はひどく険しく見えた。

「あれほどこのじいが言い聞かせたのに、おまえは本当に先生のお言葉を疑うつもりか?」

「じいさま、でも、聖母マリアを冒瀆するなんて……」

「おまえは、どうにもならんようだな。」

突然、祖父の目が赤く変わると、両手で朴正華の首をつかみ、締めつけはじめた。

「じいさま、な、何をするんですか。息が詰まります……」

もがいたが、祖父はびくともせず、そのまま孫の首を押さえつけ続けた。

「これでもおまえは、このじいの言うことを聞かんのか?」

「じいさま、聞きます、聞きます。」

目を開けたとき、朴正華の全身は汗まみれになっていた。彼は自分の首に手を当て、安堵のため息をつくと、額の汗をぬぐった。

13続く不信

続く不信

二日間の悪夢が終わり、朴正華(パク・チョンファ)は、今度こそ先生が何を言われても受け入れようと決心した。

「先生、昨夜の夢に……」

朴正華(パク・チョンファ)が夢の話をしようとすると、先生はすでに知っているかのように、弟子の言葉が終わる前に尋ねた。

「そうか。これで本当に私の言葉を信じる気になったかね」

「はい、どんなお言葉でも疑いませんです」

「そうか。だが、今度の話は本当に受け入れがたいはずだぞ」

「いいえ。信じますから、聞かせてくださいよ」

ふたたび真剣な御言の時間が始まった。弟子は耳をそばだて、真剣な表情で聞きはじめた。

「今日はイエスについての話だ。多くのキリスト教徒は、イエスの死によって人間の罪を赦してくださったと考えている。彼らは、イエスの血が自分たちの罪を贖ったと思い、彼が死んだ刑具である十字架を高く掲げ、そこに向かって祈りを捧げている。

では、イエスがこの地に来られた目的は、死ぬためだったというのか。聖書を見ると、イエスは自分を信じなさいと言ったのであって、自分を殺しなさいとは言っていない。イエスが死んだのは、当時のユダヤ民族がイエスを信じられずに殺したのであって、イエスが死ぬために来られたのではない。イエスの死後、弟子たちがユダヤ民族に向かって、イエスを捕らえて殺したことを強く非難したことを見ても、イエスは死ぬために来られたのではない。イエスがこの地に来られた目的は、メシアである自分を信じさせたうえで、メシアを中心とした神の世界をつくるためであった。しかしユダヤ民族の不信によって、イエス様はその御旨を成し遂げられずに行かれた。したがって、その御旨を成し遂げるために、ふたたび再臨主が来られざるを得ないのだ。言い換えれば、イエスはメシアの責任をすべて果たすことができなかったということだ」

またしても、来るべきものが来た。朴正華(パク・チョンファ)の顔はゆがむどころか、青ざめていた。

彼の腹の中はぐらぐらと煮えたぎっていた。

『これは何の話だ。万王の王であり、神の独り子、この世の救世主イエス、どんな修飾語をつけても足りないイエス様が、責任を果たせなかっただと? おれは洗礼ヨハネを冒瀆し、マリアを冒瀆するところまでは我慢できても、イエスを冒瀆するのだけは到底我慢できない』

怒りのこみ上げた朴正華(パク・チョンファ)は、つい大声を張り上げてしまった。

「先生、これはいったい何というけったいな話ですか」

弟子のこうした態度を毎度見てきた先生は、今回も淡々と答えた。

「君はまだ疑いが多いのだな。戻って祈ってみなさい」

朴正華(パク・チョンファ)は、どう考えてもまったく理解できなかった。先生のすべての御言は、これまでの常識とはまるで違っていた。これを受け入れろというのか。朴正華(パク・チョンファ)の頭の中は、またしてももつれはじめた。

一方で、今夜も祖父が来て、何を言われるのだろうかという不安が押し寄せてきた。

『いくらじいさまがおれを脅したって、あんな話を聞いて従うなんてあり得ない。今日こそ、おれも命懸けで決着をつけねばならない』

14戻ってきた弟子

「じいさま、今日は顔色がなんでそんななんですか?」

朴正華(パク・チョンファ)は祖父を見て、はっと驚いた。祖父はいつもとは違い、ひどく憔悴した姿をしていた。顔には血の気がまるでなく、瞳は力を失ったようにうつろだった。

「正華よ、わしはもう、おまえをあきらめねばならんようだな」

祖父の、気の抜けた人のような力ない言葉に、朴正華はいっそう驚いて尋ねた。

「え? そ、それはどういうお話ですか?」

「わしがあれほど言い聞かせたのに、おまえはその頑固さを捨てられんのだな」

「それでも、イエスを冒瀆するお言葉を聞いて、どうして……」

「正華よ、おまえはあのお方を誰だと思っているのだ?」

「はじめは、立派な先生だと思っていました。けれど今は、よく分かりません」

「よく聞きなさい。あのお方は天が遣わされた方だ」

「天が遣わされた方ですって?」

「そうだ。おまえはあのお方が何をおっしゃろうと、絶対に従わねばならん。そうしてこそ、おまえはここから生きて出られるのだ。それなのに、そこまで頑なでは、このじじいにはもう、これ以上どうする力もない」

憔悴した老人はゆっくりと背を向け、そのまま去っていった。

「じいさま! じいさま!」

彼は祖父に向かって、喉も裂けよとばかりに叫んだ。

朴正華は昨夜の夢のせいで、一日じゅう仕事が手につかなかった。憔悴した祖父の姿が脳裏から離れなかった。

『本当に、あの先生を裏切ったりしたら、俺はここで死ぬのではないだろうか?』

恐れと恐怖が押し寄せてきた。

『本当に天が遣わされた方なら、その方を信じて従いさえすれば、俺は生きられるはずだ。じいさまが三度もこうして強く言われたのは、俺を生かすためなのだろう』

そう考えると、彼の頭の中はいくらか澄んだ。彼は、今度こそ本当に先生のお言葉を絶対的に信じようと決心した。

「それで、祈ってみたかね?」

先生は笑みを浮かべながら、きまり悪そうな顔をしている弟子に尋ねた。

「実は昨日も、じいさまが来まして……」

「お祖父さんはお祖父さんで、君には君の考えが大事ではないか」

「もちろんそうですが、じいさまの言葉もそうですし、また俺の考えでもそうですし……これからは絶対に、先生のお言葉を信じます」

「ふむ……そうか? これからは、もっともっと衝撃的な話をしてやらねばならないな」

先生はそう言うと、からからと笑った。先生の言葉に、弟子は照れくさそうな顔で頭をかいた。

15先生を訪ねてきた女

先生を訪ねてきた女

1950年の、ある春の日だった。白いチョゴリを着た中年の女が、興南監獄へ向かって歩いてきた。片手には包みを、もう片方の手にはハンカチを固く握りしめ、休むことなく歩きつづけた。監獄に着くと、彼女はすぐに囚人面会室へ入っていった。

彼女は痛ましげなまなざしで、まるで自分の息子でも見るように、若い先生を見つめた。その目には、いつのまにか涙がいっぱいにたまっていた。

「先生、お体はいかがですか」

涙声で言う女に、若い青年は静かに答えた。

「泣かないでください。私は大丈夫ですから」

囚人服を着た哀れな姿ではあったが、先生のまなざしは烈しく燃えていた。

「教会の食口たちには、心をしっかり持ち、信仰を失わないようにしなさいと伝えてください。まもなく、摂理的にたいへん重要なことが起こるでしょう」

先生の言葉に、女は驚いた表情で尋ねた。

「摂理的に重要なこと、ですか」

「そうです。死ぬことだけはせず、信仰を守るように言ってください。まもなく私は、ここから出ることになります」

「えっ? 先生の刑期はまだ3年も残っておりますのに……」

「私の言うことをよく聞きなさい。時が近づいています。神が私をこの場所から出してくださるでしょう。ですから、私の言ったことをよく守りなさい」

「はい、わかりました」

彼女はそう答えると、包みを先生に手渡した。

「これは餅とミスカルです。ほかの人にはあげず、隠しておいて召し上がってください」

先生はうなずくと、包みを持って立ち上がった。彼女は背を向けて去っていく先生の姿を見ていたが、ふとそのズボンに目が留まった。あまりにも古く、しかもあちこちに穴のあいたズボンを見ると、涙がこみ上げた。彼女はあふれ出る嗚咽をハンカチで押さえ、先生の後ろ姿を最後まで見送った。

先生は監房に戻るなり、持ってきた包みを解いた。

「今日はごちそうだ!」

20人余りの監房仲間が飛びつくように集まり、包みの中の食べ物を分け合って食べた。

「先生は食べねえんですか」

「私はいい。君たちがたくさん食べなさい」

16戦争の始まり

戦争の始まり

5月になると、収容所で奇妙な噂が流れた。まもなく戦争が起こるというのだった。

「ソ連のほうへ肥料を運んでいった船が、戻るときには曲射砲をぎっしり積んで来るって話だぞ。」

一人の看守が総班長に耳打ちして、秘密情報を伝えた。彼は直感的に、戦争が始まるのだと感じた。

6月になると、空気はいよいよ尋常でなくなり、収容所内でも監視が徹底され始めた。

1950年6月25日のことだった。

「先生。戦争が始まったそうです。」

戦争の知らせを聞いた総班長は、先生のもとへ駆けつけて伝えた。この日の明け方、銃声が鳴り響き、ついに戦争が始まったのである。

「そうか、来るべきものが来たのだな。」

先生は、すでにこの戦争について知っているかのように見えた。

気が急く弟子たちは、先生を通して未来を知りたいかのように、そばへ近寄って尋ねた。

「先生、戦争はどうなっちまうんですか。」

「落ち着きなさい。生きるも死ぬも、すべて天の御心だ。していた仕事を最後までやりなさい。」

先生の言葉に、弟子たちはそれぞれの持ち場へ戻っていった。

戦争の様相は、南韓に不利に動いていた。戦争が始まると、わずか3日で南韓の首都ソウルが北韓の人民軍によって陥落した。軍事力で劣勢だった南韓の国防軍は、首都の陥落とともに南へ退いていた。

いつのまにか南と北は、ひと月以上にわたって激しい攻防を繰り広げていた。

そうして戦争がまさに進行していた1950年8月1日。

昼の12時だった。突然、けたたましい非常サイレンが鳴り始めた。一人の看守が工場を横切って走って来ていた。

「空襲だ!」

その声が落ちるやいなや、「ドカン」と爆弾が炸裂した。人々が群れをなして働いていたその真ん中に爆弾が落ち、現場はたちまち阿鼻叫喚の生き地獄となった。数百人の死体が転がり、あちこちから呻き声が続いた。

また飛行機が「ウィーン」とうなりながら通り過ぎ、爆弾を投下した。続けざまに、あちらこちらで腕や脚の吹き飛んだ死体が転がった。

この日、数十機の国連軍爆撃機は、実に4時間にわたって肥料工場に爆弾を降らせ、数千人が死んでいった。

「先生、大丈夫でいらっしゃいますか。」

かろうじて収容所へ逃れてきた弟子たちが、先生のもとへ駆け寄ってきた。だが先生は、何事もなかったかのように、いつもどおり毅然としていた。そして弟子たちに、前と同じ言葉を告げた。

「落ち着きなさい。生きるも死ぬも、すべて天の御心だ。」

17囚人たちの死

囚人たちの死

「総隊長、このまま収容所まで攻撃されたら、どうすりゃいいんですかい?」

空襲のあった日、看守総隊長と数人の管理者が事務室に集まり、対策会議を進めていた。

「収容所は攻撃しないはずだから、ひとまず安心していろ。」

「それをどうしてご存じなんですかい?」

「ジュネーブ協約だか何だかがあってな、収容所みたいな施設は攻撃しないという話だ。」

「そうなんですかい? それはそれとして、これからどうすりゃいいんですかい? 工場があんなことになって……」

「まずは状況を見よう。だからといって、手をこまねいてはいられんだろう?」

翌日から工場の復旧作業が始まった。あちこちに散らばっている死体を片づけるのも大仕事だった。工場職員が四千余名死に、収容所の囚人も七十余名死んでいた。

「先生、私は先に発つことになりました。」

空襲の翌日である8月2日、総班長の朴正華(パク・チョンファ)は刑期を終え、出所することになった。

「そうか。出たら平壌へ行き、教会の食口たちに会いなさい。そして、私が元気でいると伝えてくれ。」

「はい、承知しました。」

弟子はどうしても足が進まず、振り返っては先生に手を振った。それを何度か繰り返すと、遠くへ消えていった。

「これからいくらもしないうちに、私たちもあのように出て行くことになる。」

先生の言葉に、弟子たちは互いの顔を見つめるばかりだった。

8月中旬になると、北朝鮮は釜山を除く全国を占領した。もはや間もなく北朝鮮の完全な勝利が訪れるかのようだった。9月になると、北朝鮮は勝利の祝杯を挙げる準備をしていた。ところが9月15日、国連の仁川上陸作戦が始まった。朝鮮半島の南端まで総攻撃をかけていた北朝鮮にとって、仁川上陸作戦はまさに虚を突くものだった。

「総隊長、大変です。国連軍が目と鼻の先まで上がって来たそうです。」

10月になると、国連軍が収容所の近くまで進軍してきた。収容所の幹部たちはうろたえ、看守総隊長のもとへ駆け寄って、口々に叫んだ。

「総隊長、このままじゃみんな死んじまいます。ここを捨てて、とっとと逃げましょう。」

「そうです。おれたちゃ逃げなきゃなりません。」

総隊長が彼らに向かって重々しく口を開いた。

「そうだな、おまえらの言うとおり逃げるとしよう。だが、囚人どもはどうする?」

「そりゃ、外に出すか、置いていけばいいんじゃないですかい?」

「それがそんなに簡単なことだと思っているのか?」

幹部たちは、何を言っているのかよく分からないという表情だった。

「もし俺たちが逃げる途中で、あの野郎どもが俺たちを見かけたら、黙って見逃すと思うか?」

聞いてみれば、そのとおりだった。これまでひどい虐待を受けてきた彼らが、外で偶然にでも看守を見たなら、報復するに決まっているからである。

「なら、どうすりゃいいんですかい?」

「どうするも何もあるか。皆殺しにしてから行くんだ。」

翌日、呼び出された数百人の囚人が縄で互いに縛られ、どこかへ引き立てられていった。

看守たちは銃で武装し、彼らを山奥深くへ連れていった。

一時間ほど登ったときだった。

一人の看守が立ち止まり、地面を指さして叫んだ。

「ここだ!」

看守たちは囚人たちに、シャベルで地面を掘るよう命じた。わけも分からぬまま、囚人たちは地面を掘りはじめた。

二時間ほど掘り進んだときだった。

「タン、タン、タン」

地面を掘っていた囚人たちに向かって、銃弾が雨あられと降り注いだ。銃に撃たれた囚人たちは、ばたばたと倒れた。彼らが掘った穴は、彼ら自身の墓となった。

18生と死

「昨日、作業に連れていかれた連中が戻ってこなかったっていうじゃねえか」

たちまち収容所に噂が回りはじめた。

「これ、みんな殺されたんじゃないのか?」

囚人たちの目は、不安に揺れていた。

昨日に続いて今日も、看守たちは山中の作業へ送る囚人たちの番号を呼びあげた。

「先生、私まで呼ばれました」

先生のすぐ前の番号である595番、金元徳(キム・ウォンドク)まで呼ばれた。

金元徳(キム・ウォンドク)は、なぜかこれが最後の挨拶になるような気がした。そこでいつもとは違い、いっそう丁重に先生へ挨拶をして背を向けた。

「元徳」

先生の呼び声に、彼は振り向いた。

先生の表情はことのほか真剣だった。何かを言いたげな眼差しで、しばらく弟子を見つめていた。

「行ってきなさい」

「はい」

弟子は答え終えて背を向けると、目に涙をにじませた。

昨日と同じ場所に囚人たちが集められた。深く掘られた大きな穴の中には、昨日ここへ上ってきた囚人たちの死体が散らばっていた。

「穴を土で埋めろ!」

看守の号令とともに、囚人たちは土をすくって死体の上にかぶせた。

彼らは、自分たちもその場で死んでいくことを知っているのかいないのか、ただ無力に土を運ぶばかりだった。

金元徳(キム・ウォンドク)は、自分の命がもう数分も残っていないことを直感し、死を迎える心で祈った。ついに死体の上に土がかぶせられると、例外なく人民軍の小銃が囚人たちに向かって火を噴きはじめた。

死体にかぶせられた土の上へ、囚人たちの亡骸がふたたび積み重なっていった。

ひとしきり撃ちまくった看守たちは、銃を肩に担ぎ、なすべきことを終えたというように、とぼとぼと山を下りていった。

看守たちがみな下りてからしばらくすると、烏たちが「カア、カア」と鳴きながら、穴の上空を旋回していた。

その時だった。

死体のように横たわっていた金元徳(キム・ウォンドク)が、突然目を開いた。

『生きている!』

金元徳(キム・ウォンドク)は、自分が生きていることを悟った。しかし体を動かすことができなかった。全身を縄で縛られているうえ、ほかの死体が彼の上にのしかかっていた。

『縄を切らなければ!』

彼はあたりを見回した。

『そうだ、あれだ』

彼は眼鏡をかけた死体を見つけた。手を伸ばして死体から眼鏡を抜き取ると、石を握ってレンズを叩き割った。割れたレンズを注意深く握り、自分の腕を縛っている縄を少しずつ切りはじめた。30分ほどもがいていると、縄はすべて解けた。

彼は立ち上がって自分の体を調べた。どこにも怪我はなかった。300余名の囚人たちが死んだなか、奇跡的に生き残ったのだった。

『神様、ありがとうございます』

彼は心の中で天に感謝しながら山を下り、逃げはじめた。

19脱出

脱出

その夜、先生は弟子たちを集め、指示を下した。

「いよいよ、われわれがここを発つ時が来た。夜明けになれば、ここを脱出するのだ」

「先生、扉があんなふうに錠をかけられているのに、どうやって脱出するんですかい?」

「まず私の言葉を肝に銘じて、待っていなさい」

弟子たちは先生の仰せに従うことを誓い、それぞれの場所で脱出の準備をした。

ついに夜明けが来た。

『ドカン』

どこかで爆弾が炸裂する音がした。

「空襲だ!」

けたたましいサイレンの音とともに、空襲を告げる看守たちの叫びが聞こえた。囚人たちは肝をつぶし、われ先に逃げようとわめき立てた。

先生の弟子たちも狼狽し、どうしてよいかわからなかった。

「落ち着きなさい。私のそばにぴたりとついていなければならない。決して私の周りから遠く離れてはならない」

そうして先生は弟子たちに念を押すと、先頭に立った。

数千の囚人たちが、堰を切った水のように外へ飛び出した。彼らは一様に正門をめがけて走った。

先生の弟子たちもそちらへ走っていこうとした。すると先生が叫んだ。

「そちらへ行かず、私について来なさい!」

先生は人々とは反対の方へ走った。先生の言葉を聞いた弟子たちは、先生の後に続いて反対側へ走っていった。しかし何人かは、そのまま正門をめざして運動場を横切って行ってしまった。

その時だった。国連軍の爆撃機が一機、上空を過ぎながら、運動場の真ん中に爆弾を落とした。

『ドカン』

あふれ出る群れの真ん中に爆弾が落ちた。数百の死体が一瞬にして転がった。生き残った者たちは漆黒の闇の中で、どこへ行けばよいのかわからず右往左往し、泣き叫んだ。

そのような状況の中でも、先生は落ち着いて先頭に立ち、走った。そんな先生を追って、弟子たちも走った。先生の一行は収容所の裏手へと走っていった。裏手の塀は、すでに爆弾を受けて崩れ落ちていた。彼らは崩れ落ちた塀を越え、力の限り走りはじめた。

どれほど走っただろうか。

爆弾の炸裂する音は、もう小さく聞こえるようになっていた。

いつのまにか、はるか遠くの山の向こうから太陽が昇っていた。

* * *